私が出会った彼は
真っ暗な闇の中で生きてきた
たった一人で
ただ食べ、排泄し、呼吸して
それが彼の全てだった
それでも、ふと、思うことがあった
もっと違う世界があるのではないかと
いやいや、そんなことはない
今あるもの、それが全てだ
楽しくなんかない
別に辛くもないが
こうやって自分は生きて行くのだ
青ざめた飴のように伸びる時間
ただ食べ、眠り、排泄して
彼はリアリストだから
幻想でごまかしたくはない
あまったるい嘘より
過酷な現実の方がましだと思う
それでも、
ときどき、心のどこかでささやく声がした
もしかしたら、これが全てではないかもしれない
やがて変化の時が訪れるのではないかと
いやいや、そんな期待は抱くまい
希望を抱けば
裏切られた時が辛すぎるじゃないか
孤独だった
話し相手のない時間はのろのろ進む
長かった
永遠と思われるほどに
だが、ちっとも寂しくはない
楽しくもないが
辛いというほどじゃない
まあ、生きるとはそんなものだろう
ただ、何だか悲しいのだ
《どうして僕は悲しいんだろう…》
ときどき、彼は夢を見た
自身の姿さえ知らないくせに
夢の中で
芳しい香りに包まれて
何かまばゆいものの中を飛んでいた
透明な翼を広げて
何という喜ばしさだ!
彼は歌ってさえいたのだ
目覚めても余韻は残る
あれは何だろう?
あのまばゆさは?
苦しいあこがれが胸をしめつける
だが…
彼はむりやり目を伏せる
幻想なんか抱くまい
裏切りにしか終わらない期待など
食べて、眠り、排泄し
ひたすら呼吸する
確かなことはそれだけだ
何の予告もなく
突然、それはやってきた
気の遠くなるような時の流れのまっただ中に
天上でガラガラと鐘が鳴り
大音声が彼を呼んだ
「時は満てり
今こそ出でよ」
抗うことなどできなかった
長年なじんだ居場所を捨て
声の導く方へと彼は進んだ
進むごとに体がどんどん膨らんでいく
早くたどり着かねば破裂してしまう!
だが、いったい、どこへ?
「上れ」と声は命じる
彼はジタバタかき分けた
安全と長命を保証してきた暗闇を
自分を守り、養い、閉じ込めていた
ずっしりと重たいものを
やがて、ふと呼吸が楽になる
信じがたいほど軽い世界へたどり着く
ここが終着だろうか…?
「否、もっと上へ」
あたりに満ちるあの芳しい香り
膨らみ続けた体は背がはじけ
そこより身をよじり出せば…
ああ、いつの間にか、羽がある!
目が灯る
降り注ぐまばゆい陽光
頭上にちらちらと揺れる緑
その間に覗くのは
無限の青空
ホザナ!
彼は飛び立とうとしていた
ほんのひととき歌うために
生を讃える愛の歌を
やがて力尽きて落ちようともそれが何だろう
この恩寵
この奇跡のあとならば
彼は気づいた
闇にいて祈るように
自分はずっとこの日を待っていたのだと
そして、こうも思う
ひょっとしたら
これが最後ではないのかもしれないと
これらのことを私に語って
彼は飛んで行った
ただ恋をするために
私の手の上に美しい琥珀色の鎧を残して
「ここが全て
今、おまえであるもの
それが全てだ」
そう、したり顔に言う人と言葉を
私は信じまいと思う
重い闇の中にあって
小さな明かりが一つあればいい
ささやかな祈りのように
Yumi

Illustrated by Hikaru 🐰
せみがら
コメント