私にとって書くと言うことは裸になること。
白昼、衆目の集まる場所で。
本好きな子供だった。
ソファや畳の上に寝転び、いつまででも物語を読みふけっていた。大人が何度呼んでも生返事。ついにはカミナリが落ちるまで。
いつか、自分でも何かを書く気がしていた。ぼんやりと。
だが、日記を始めれば三日坊主。
夏休みの宿題の絵日記はいつも残り4日で仕上げた。
足かせになったのがお天気。
一ヶ月分の天気を市の測候所に聞きに行く。
集まっている、みな怠け者の小学生たち。
彼らが熱心に見上げる中、職員も慣れたもので、「えー、10日は晴れ、11日は曇り…」と手にした資料をよどみなく読み上げて行く。
多少恥ずかしい思いをしながら、せっせとそれをメモに取る…。
思春期になればご多分に漏れず自我の目覚めとやらにぶつかり、やり場のない懊悩を家人に隠れてノートする。
だが、いつも一月も持たずに破り捨ててしまう。
一つには自分の悪筆にうんざりするせい(世にワープロが登場した時、「これは私のためにある!」と歓喜したほどの)。
そして、そののたくった字に現れる未熟な自分を見るのが何より恥ずかしかったから。この世から消してしまいたいほどに。
そして、文字通り消してしまった。だから、紙の日記は一冊も残っていない。
私にとって書くという行為はいつだって裸になるということだった。
文章は恐ろしい。それを書いた人間の外皮を容赦なく引っぺがし、内面を露わにしてしまう。
まるでピカピカに磨き上げられた鏡か、解像度の良すぎるカメラのように。
その前では自分をよく見せようとする試みなどあえなく瓦解する。
洞察力の鋭い人にかかれば文面に表れる、あるいは、行間ににじみ出る無知や語彙不足、隠されたエゴや欲望、他者への羨望、悪意、傲慢な野心、それと隣り合わせの小心さ、臆病さなど、難なく見透かされてしまう。
怠惰な勉強不足も、目を背けるほど醜い嫉妬心も…。
どこに潜むかも知れないそのような人の目が、私はいつも冷や汗が出るほど怖かった。
そんなわけで、書けない年月がとても長かった。
過剰な自意識で張り巡らされた神経過敏バリヤー。
それなのに、心の奥に種火のようにくすぶっている書きたい欲求。
その長い葛藤の末、逆転は起きた。
ある日、突然、私は書けるようになっていた。
奇妙なことに、その理由は書けなかった理由と全く同じだった。
確かに、人は…、とりわけ深い洞察力を持つ人ならば、私の書いたものから内面の欠点を余すことなく見て取るだろう。衣類を剥ぎ取るようにして。
だが、同時に、その人は私の長所も見るはずではないか、そう多くはないにしても?
「お、ここは悪くない」とか、「まずまずじゃないか」とか。
ひょっとしたら、「ここは好きだな」と感じてくれる所だってあるかもしれない、私も人間なのだから。少なくとも人類に共通した最低限の美徳は備わっているはずだから。
それは未成熟だった自分が初めて自意識のバリヤーを下げ、他者を信頼できるまで大人になった瞬間だったのかもしれない。
私の書いたものを読むとき、人は、私が「見せようとしているもの」でも「見せまいとしているもの」でもない何かを読み取ることだろう。
それが何であるのか、結局私には知りようがない。
加えて、私の冷蔵庫には特選松阪牛は入っていないし、舌の上でとろけるような本マグロも鎮座していない。
あるのは安いバラ肉と卵が少し、あとはありきたりの野菜ばかりだ。
だったら、ちゃんと料理する他はない、ガリガリ生煮え、ぶつ切りを出さないように気をつけて。
つわりがひどくて吐いてばかりで何も食べられなかった時、義母が大根料理を部屋まで運んで来てくれた。
出汁と砂糖と醤油、少しの油だけでことんと炊いた飴色の一切れ。それは口の中で柔らかく溶けて、するりと喉を通っていった。
私も大根みたいなもの。ありふれて、特別なところが何もない。
だからこそ、ただ誠実に書いて行くしかないと思うのだ、「いいな、好きだな」と思ってくれるだれかがきっとどこかにいることを固く信じて。
ありきたりの人生がシャンソンになって愛されるように。
Yumi

Illustrated by me 🤗
Hikaruに少し手を入れてもらいました。
とても可愛くしてもらっちゃいました😅
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